創業物語Founding Story

とうふと沖縄の魅力を、
全国の人に知ってほしい!

ハドムフードサービスをご贔屓にしていただき、誠にありがとうございます。
現在、全国各地のお客さまにとうふをお届けしている弊社ですが、その歴史は、母が一人できりもりする三坪のとうふ屋から始まりました。
こちらでは、私がこの仕事を始めたきっかけをご紹介いたします。
少々長くなりますが、お付き合いいただけましたら幸いです。


28歳、とうふ作りにはまる

私は、サラリーマンの父と、とうふ屋を営む母の間に四男として生まれました。
幼いときから、家族のめんどうを見ながら、夜中にとうふを作る母の姿を見て、「とうふ作りは大変だなあ」と思いながらも「自分で商売をするって、いいなあ」と、憧れも感じていました。
大人になって、一度は会社勤めをした私でしたが、商売への憧れを捨てることができず、28歳で母のとうふ店を継ぐ決心をしました。

商売がしたかった私は、正直言うと、とうふ作りにはそんなに興味がありませんでした。しかし、実際にとうふ作りを体験して、その奥深さに驚きました。とうふ作りは原料や配分が一緒でも、季節・気温・湿度、そして作り手の触れかたによって、簡単に味や固さが変わってしまうのです。
まるで伝統工芸のようなとうふ作りに、私は一気に魅かれていきました。

当時は、とうふ作りや配達・営業で忙しく、睡眠時間は毎日3時間程度でした。
体力的にはきつかったですが、経験したことのないことばかりで、わくわくドキドキしながら毎日を過ごしていました。
何より嬉しかったのは、お客さまに「おいしい」と言っていただいたとき。
自分で作ったものを、誰かに味わっていただき、喜んでいただけるとは!
私は、生まれて初めての体験に感動し、とうふ作りに夢中になっていたのでした。

写真提供:那覇市歴史博物館


取引先200店舗達成!…だけど、もう限界っす…

母が一人でとうふ屋を切り盛りしていた頃、工房では一日60丁のとうふを作っていました。
取引先は、飲食店と惣菜店さま8店舗のみ。1カ月の利益は、家計を補うために費やされていました。
つまり、当時の売り上げでは、一人分の給料をまかなうことすらできなかったのです。

とうふ屋を継いだ私は、まず取引先を増やすために、必死で営業をする必要がありました。
また、とうふを作る設備を整えるため、たくさんの借金も負うことになりました。
その頃は、よく「2代目なのに、創業者みたいな苦労をしているなぁ」って、泣笑ったものです。
もちろん、これは冗談です!
とうふ屋を始められたのは、とうふ作りの技術を磨き、それを私に教えてくれた母がいたからこそ。
今があるのは、やっぱり母のおかげ。感謝しかありません。

さて、はりきって小売店さまへの営業を始めた私ですが、どちらを訪問しても「間に合ってるよ!」と言われ、相手にされないことがほとんどでした。
他のとうふ屋さんとのつながりが強く、新参者はなかなか受け入れてもらえないのが現実だったのです。
飲食店さまにターゲットをしぼることで、何とか7年間で約200店舗の取引先を獲得しましたが、その営業スタイルは、他のとうふ屋さんとお客さまを奪い合い、価格の競り合いをするようなもの。
心をこめて作ったとうふの値段を、どんどん下げるだけの商売は、心が痛みました。
私は次第に「沖縄県内で、これ以上業績を伸ばすのは難しいのでは?」と考えるようになりました。
そしてある日、本土での営業活動に挑戦しようと決めたのです。


手ぶらで来た島人を、温かく受け入れてくれた大正区

大阪府には、沖縄からの移住者が多い「大正区」という地域があります。「大正区なら、比較的営業しやすいかもしれない」と考えた私は、手ぶらで大阪へ飛びました。
自慢のとうふを持たずに行ったのは、冷蔵が必要なとうふを、どう運んで良いのか分からなかったからです。

大正区へ行った私は、さっそく手近な沖縄物産店へ飛びこみました。
「沖縄から来ました!うちのとうふを置いてもらえませんか?」と申し上げると、お店の方はびっくり。
「そんなに遠くからわざわざ…」と慌てられ、すぐに商談の場を設けてくださいました。
さらに、商談中、私が「発送って、どうすればいいんですか?」「梱包の方法が分からないんですが…」と、初歩的な質問ばかりするので、重ねてびっくりされたようでした。
その頃の私は、県外に商品を送った経験もなく、物流の知識がほとんどなかったのです。
お店の方は私に、配送会社の選び方、配送サービスの選び方、冷蔵が必要な食品を梱包する方法など、県外へ商品を送るための基礎知識を、1からていねいに教えてくださいました。 そして最後に、商品に問題がなければ、当社と取引きしようと言ってくださったのです。

今思えば、何の知識も持たず、沖縄から体一つでやってきた私に、お店の方は呆れられたに違いありません。
呆れた上で、「応援してやろう」という情けの気持ちをもって、向き合ってくださったのではないでしょうか。
こちらの会社さまはお店を閉められたので、残念ながら現在のお付き合いはありません。
でも、本土で最初に私を受け入れてくださり、親切に物流のイロハを教えてくださったご恩は、今でも変わらずありがたいと思っています。これからも、決して忘れることはないでしょう。


会社が成長するきっかけを、作ってくれた人

大阪での営業がうまくいき、調子こいた私は、続いて東京へ乗りこみました。
ウィークリーマンションを1カ月間借りて、都内の飲食店さまを片っ端から訪問して回ったのです。
しかし、結果はさんたんたるもの。約300店舗を周りましたが、ほとんど全滅でした。
途方に暮れていたとき、ふと、関東地方に拠点を置く、ある企業さまのことを思い出しました。
その企業さまは、とうふの製造や販売をされていて、数多くの小売店舗を抱えておられます。
弊社との共通点は、包装資材を作っていただいている会社さまが同じ、ということ。たったそれだけのご縁でしたが、私は「せっかく東京まで来たんだから」と、その企業さまを営業訪問することに決めたのでした。

いくら同じ会社の包装資材を使っているといっても、先方にとって私は、どこの馬の骨とも知れぬ人。
無理もないことだと思いますが、本社へ4回足を運んでも、まったく取り次いでいただけませんでした。

困り果てた私は、悩んだ末、今度は包装資材の卸会社さまを訪問しました。
弊社と企業さまの共通点に、可能性を求めたわけです。
私は、卸会社の専務にお会いすると、「先方に、私の名前を知らせてください」と頭を下げました。
「取り次いでいただかなくて結構です。名前を知らせていただくだけでいいんです。専務にご迷惑はかけません」。ずうずうしいお願いなのは百も承知でした。なにしろ、専務にとっては何のメリットもない話です。
でも、最初は驚いておられた専務も、結局「分かった」と言ってくださったのでした。

数日後、私はまた、企業さまの元へ伺いました。これで5回目の訪問です。
受付で名前を申し上げると、それまでとは異なり、スッと社内へ通していただけました。
そればかりか、役員の方にご挨拶する機会をいただき、商談のお時間まで作っていただいたのです!
商談では、「条件を満たすことができれば、お取引させていただきます」という前向きな回答までいただき、鳥肌が立ちました。
もしもこの仕事が決まれば、それは弊社にとって、これまでとはケタ違いの大型取引になります。
私は、飲食店さまへの営業が大失敗だったことも忘れて、大喜びで沖縄へ帰りました。
そして、先方に出していただいた条件を、何が何でも満たすつもりで、数カ月間フルパワーで働いたのでした。

ありがたいことに、その企業さまとのお取引は、今でも続いています。もちろん、包装資材の会社さまとも。
あの取引があったから、ステップアップすることができたし、信頼につながる大きな実績を作ることができました。包装資材会社の専務が、先方にどんなお話をしてくださったのかは分かりません。
でも、弊社が大きな一歩を踏み出すきっかけを作ってくださったという事実は、間違いありません。
感謝してもしきれないぐらいだと思っています。


故郷を出て、沖縄への思いに気付く

その後は、東京や大阪の百貨店さまで商品を扱っていただいたり、全国各地で開かれる沖縄フェアで販売していただいたりと、本土での活動がどんどん広がって行きました。
それにともなって、県外からのお問い合わせや注文も少しずつ増えていきました。

意外なことに、県外で営業活動をするほど、地元沖縄への愛着は強くなりました。
沖縄フェアなどに出品すると、沖縄代表としての意識が芽生え、「沖縄の魅力を、全国の方に知っていただきたい!」という思いがわくのです。

今の私は、「ジーマーミ豆腐」や「島とうふ」など、沖縄の先人たちが生み育てた郷土料理のおかげで、商売をさせてもらっています。
そう考えると、沖縄への感謝の気持ちと、恩返しをしたい気持ちで、いっぱいになります。
私共が沖縄に恩返しする方法があるとしたら、それは、沖縄の食文化を全国に広げることだと思います。
とうふを通して、沖縄をもっと盛り上げること。それが、私の使命だと考えるようになりました。


沖縄のとうふを、世界へ広めるために

私共は、沖縄のとうふを日本だけでなく、世界中の人に親しんでいただきたいと思っています。
そのためには、伝統を守る心はもちろん、枠にとらわれない新しい発想が欠かせません。
だから、ハドムフードサービスは、常に大胆な挑戦を恐れないチームでありたいと願っています。
また、世界中のどんな場所でも、どんな人の前でも自信をもって紹介できるように、衛生管理と品質管理には、何よりも力を入れています。
そうして国内外にたくさんの沖縄ファンをつくり、沖縄を元気にすることが、私の一番の目標です。

母と二人きりで豆腐を作っていた頃に比べたら、ありがたいことに、会社も少しは大きくなりました。
今の私が何より嬉しくなる瞬間は、お客さまから「おいしかった」と感想をいただくときです。
心をこめて作ったものを、「おいしい」と言っていただける喜びは、今も昔も変わりません。

お客さまお一人おひとりに喜んでいただけるように。
沖縄の魅力を、より多くの方に知っていただけるように。
一生懸命、とうふ創りに邁進してまいります。
今後とも末永くご愛顧たまわりますよう、お願い申し上げます。

株式会社ハドムフードサービス
代表取締役 赤嶺英一


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